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第13回研究会
2012年5月26日開催

​会場:駒澤大学中央講堂

 

教育講演
精神医学史における「物狂ひ」とその周辺
―狂気観の変遷と精神医学―
 講師:小俣和一郎(上野メンタルクリニック)
 司会:中村伸一(中村心理療法研究室)

特別講演
「祭りと熱狂、狂いと日本文化」
 講師:松尾恒一(国立歴史民俗博物館)
 司会:賀陽 濟(西東京心理療法研究所・田無神社)

シンポジウム
テーマ「日本文化と物狂い ~日本文化は狂気をどうとらえたか~」
「物狂能について-能に描かれた狂気と憑依」
 シンポジスト羽田 昶(武蔵野大学 能楽資料センター)
「日本のシャーマニズムにおける狂気について」
 シンポジスト:佐藤憲昭(駒澤大学)
「魂鎮めと心理療法、神道の立場から」
 シンポジスト:賀陽 濟(西東京心理療法研究所・田無神社))
 指定討論:西園昌久(心理社会的精神医学研究所)
 司会:大山みち子(武蔵野大学・広尾心理臨床相談室)
 司会:本橋弘子(CLA湯島心理臨床研究所)

第13回「東洋思想と心理療法」研究会

シンポジウムのテーマにある「もの狂い」は、日常目にすることは少なく、また「狂気」ということばも、文学上の表現以外では、用いなくなって久しいように思います。

「もの狂い」の「もの」は、古語として「魂」や「霊」などを表すと言われていますが、現代の語感では、「もの」は、「見えない」こころ、よりも「見える」からだ、に近い印象があるようです。

 元来「もの」、「こころ」、「からだ」には分別は無いのであり、さらに「狂気」も「正気」も両者を分類・分析する視点から離れて、同じところにあるもの、とすれば、どうでしょうか。一休禅師の「風狂」というのは、分別心を転じて、無分別とする「はたらき」そのものであり、「狂」という行為の中に、「こころとからだ」の分別を離れた、まことに自在な姿がある、とするものでしょう。

 「狂」を「狂」としてとらえ、「常」を「常」としていくのは自然のあり方です。そしてさらに「狂気」の中に「正気」を見、同時に「正気」の中に「狂気」を見て取ることは、心理療法上で意義のある臨床的な態度である、と考えます。

 今日あらためて、「もの狂い」ということに着目し、本邦においてはいわゆる「狂」というものをどのようにとらえてきたか、精神医学史や能、民俗学、宗教人類学などの側面から語り合っていただきたいと考え、今回の企画をいたしました。楽しみにしております。

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